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2013年3月31日 (日)

さらば勘九郎

4月2日に杮落し公演を待つばかりの歌舞伎座では
新開場を控え、祝いの行事が続いているようだ。
しかし、歌舞伎座新開場は哀しみを秘めた船出となる。
十八代目中村勘三郎と、十二代目市川團十郎という
二枚の大名跡を相次いで失った痛手は計り知れない。

  さらば勘九郎
    歌舞伎は二十一世紀の生きた演劇
  中村成美著 幻冬舎刊

勘九郎とは、当代の六代目中村勘九郎ではない。
五代目中村勘九郎が45年の永きに渡り、
その名を愛し続けた日々を、本人が熱く語り継いだ姿を
描いた著作である。

平成13年12月
著者である中村成美は、新聞連載の特集第1回の
インタビューの相手として中村勘九郎を取材する。
著者は、まず中村家の稽古場に通された。
そこには、勘九郎の祖父である六代目尾上菊五郎と、
父である17代目中村勘三郎の肖像写真が飾られた
厳粛な世界であった。

その場で何枚かの取材写真を撮ったのち、私邸に誘われ
取材陣は勘九郎と妻である芳江ともども、
親しく歓待を受けることになる。
その場での勘九郎の話はとどまるところを知らず、
深夜に及んだインタビューの終いに勘九郎は言った。
「これから月に一度、こうしてインタビューしてよ。
オレはまだまだ語り足りない」
爾来4年に渡り、著者は勘九郎の話を聴き寄り添う。


平成16年夏。
ニューヨーク・リンカーンセンターで開催された平成中村座は
初日がはねたあと、館内は異様な興奮に包まれていたと、
著者は思い起こす。
夏祭浪花鑑 (なつまつりなにわかがみ) 

ニューヨークのブロードウェイで受け入れられた瞬間であった。

賞賛は観客ばかりか、
俳優であり、脚本家やプロデューサーとして活躍し、ニューヨークの
演劇学校副校長であるジェームズ・リプトンをして興奮させた。
彼は著者に「役者の中の役者。そうとしかいえないよ」と語る。

また辛口の評論で知られる演劇評論家のベン・ブランドリーも
手放しで勘九郎の舞台を賞賛した。
その評論で勘九郎が何より感激したのは、
彼の歌舞伎を現代の演劇として、
正面から評価されたことに他ならない。

日本の歌舞伎をフジヤマ、ゲイシャの延長線上の
様式美として捕らえることなく
純粋な演劇として評価された事実は勘九郎を興奮させた
あわせて世話物という、歌舞伎でも難しい演目の主題を、
日本人以外から正しく理解され評価されたことに感激するのだった。
正に勘九郎が追い求めてきた二十一世紀に生きる演劇として
歌舞伎が世界から評価された瞬間でもあった。

江戸三座の座元であった初代の中村勘三郎が
歌舞伎におプロデューサー的な存在だった血を引いたのか、
勘九郎は早くから新しい歌舞伎を創ろうとしていた。
そこには、伝統の上に胡坐をかいた時代の遺物としての
歌舞伎でなく、二十一世紀に通用する新しい歌舞伎の
創造を目指す視点があった。

勘九郎は演出家の串田和美と組み、
コクーン歌舞伎や平成中村座を創り上げた。
また野田秀樹とは、
野田版歌舞伎で新しい歌舞伎の世界を展 開した。
しかし、そうした新しい試みの根底に流れるものは、
歌舞伎への熱い想いであり、末永く続いて欲しい
伝統としての歌舞伎だったのだと思う。
それ故に野田秀樹との論争の中でも、
歌舞伎が歌舞伎である為に越えては成らない一線は
譲れないと強弁するのだった。

勘九郎は十八代目中村勘三郎の襲名を控え、
五代目中村勘九郎して最後の舞台を、
平成十六年十二月、盟友である渡辺えり子作の
舞踊劇 今昔桃太郎 ( いまはむかしももたろう)で迎える。  

これは勘九郎の初舞台である昭和三十四年四月の
昔噺桃太郎 (むかしばなしももたろう)
のその後といえる芝居だった。
この芝居の千秋楽に、彼は多くの舞台関係者が催す
勘九郎を勤め上げた祝いの宴に臨む。
そのとき5代目中村勘九郎でなくなった波野哲明 (本名) は、
これほどまで人々から愛された勘九郎に嫉妬したという。

また、未だ勘九郎の名跡を継ぐ者が居ない時点で
はいやなんだよ、
勘九郎がこの世から消えちゃうのが
と哀しみ
勘三郎をついでも、
死ぬ前に、もう一回勘九郎を襲名するぞ

と、愛妻の芳江に、酔った勢いで駄々をこねていたという。

これは、そうした円熟の五代目中村勘九郎の心意気を
余すところなく表わした一冊である。

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